日本は「予防医学」に本気で舵を切れるのか~脂質管理ガイドラインが抱える静かなリスク~
日本の医療は今、明らかな転換点に立っています。
高齢化が進み、医療費は年々増加する一方で、限られた財源の中で医療の質を保つには、病気になってから治す医療から、病気を防ぐ医療(予防医学)への大転換が不可欠です。
その中核にあるのが、動脈硬化・心筋梗塞・脳卒中を防ぐ脂質管理です。

🔍 この表から見える「日本の独自性」
① 日本だけが「日本人の絶対リスク」を最優先
- 欧米・韓国・中国:
👉 相対リスク低下 を重視 (治療で「どれだけ減ったかの割合」を大切にする考え方) - 日本:
👉 絶対イベント数 を重視 (治療で「実際に減らせる発症数」を大切にする考え方)
② LDL目標値=ゴールではなく「最低ライン」
- 日本では「<100 / <120に達すれば十分」ではない
- 個々の症例背景により、欧米並みに下げることを否定していない
③ ガイドラインで縛らず、臨床判断を残す設計
- 高齢者・低体重・多疾患併存を考慮
- 「一律に55未満」を強制しない
🧠 一文でまとめると
欧米と韓国・中国は「将来リスクを前倒しで抑える攻めのガイドライン」、
日本のガイドラインは、日本人の低い絶対リスクを重視し、過度な治療を避けることを意図した、慎重かつ個別化を尊重する設計となっている。ただし、それが長期的に最も予防効果が高いかどうかについては、今後の検証が必要です。
日本のガイドラインは「悪い」のか?
まず誤解してはいけないのは、
日本の脂質異常症ガイドライン(JAS)が間違っているわけではないという点です。
日本のガイドラインは、
- 日本人の疫学データ
- 冠動脈疾患の絶対発症率の低さ
- 高齢者・低体重者の多さ
を踏まえ、過度に薬を使いすぎない慎重な設計になっています。
これは、医学的にも合理的な判断です。
しかし「裁量の大きさ」が生む、別の問題
一方で、日本のガイドラインには構造的な弱点があります。
それは、
👉 医師の裁量が非常に大きい
という点です。
ガイドラインが示すLDLコレステロールの目標値は、
本来は「最低限ここまでは下げたい目安」にすぎません。
しかし、日常診療では――
- 外来が忙しい
- 脂質管理が専門ではない
- 目の前の症状対応で手一杯
といった状況の中で、
その“最低ライン”がいつの間にか「十分な治療」として固定化されてしまうことが少なくありません。
「惰性の緩和的治療」が生まれる理由
この問題は、決して医師個人の努力不足ではありません。
- 予防の成功は「何も起こらなかった」という形でしか見えない=評価されにくい
- 治療を強化すると、説明・副作用対応・フォローが必要となる=負担が増える
- ガイドライン上、「ここからは必ず強化すべき」という明確な線がない=決断が先送りされやすい
その結果、現状維持が最も“安全で楽”な選択、になってしまう構造が生まれます。
こうして、
本来はもっと早く・もっと強く介入すべき症例が、
長年“様子見”のまま放置される(これを「臨床的惰性(clinical inertia:クリニカル・イナーシャ)」と言います)
という事態が起こり得ます。
これは「予防医学」に逆行する
心筋梗塞や脳卒中は、
10年、20年かけて積み重なったリスクの結果です。
若いうちにLDLコレステロールを下げていれば防げた発症が、
「そのうち」「もう少し様子を見て」と先送りされ、
結果として60代、70代になって大きな医療費と生活の質低下を招いてしまう。
これは、
👉 個人にとっても、社会にとっても大きな損失です。
予防を「医療費削減」として可視化する必要があります
例えば:
- 心筋梗塞1件=数百万円
- LDL強化治療1件=10年間で数万円(経口後発品処方の場合)
👉 10年後の医療費を減らす“投資医療”(100人に10年間LDL強化治療を行うと数百万かかりますが、1人(1%)以上の心筋梗塞を予防できれば医療費が減る計算です)
📊 年間の発症率(大きな目安)
✔ 1)地域ベースの調査データ
日本の地域レベルのデータ(例:滋賀県の登録データ)では、
年齢調整済みの急性心筋梗塞の発症率は約 60〜62 人/10 万人・年と報告されています。
✔2)全国レベルの大まかな推定
日本循環器学会などの統計では、
- 急性心筋梗塞発症数は約 7〜8 万人/年程度 と推計されています。
(日本の総人口は約 1.25 億人程度なので、人口 10万人あたりに換算すると 60〜70 人/年 程度という計算になります)
📊年齢差・性差も大きい
- 高齢になるほど発症率は上昇し、全年代で男性に多い傾向です。

この図は、日本(滋賀県)における急性心筋梗塞の発症率を、年齢階級別・男女別に示したものです
(人口10万人あたり・1年あたりの発症数)。
- 男性(青)・女性(赤)ともに、年齢が高くなるほど発症率は急激に上昇します。
- 特に65歳以降で発症率の増加が顕著で、
85歳以上では男性約390人、女性約220人/10万人・年と非常に高くなっています。 - すべての年齢層で男性の発症率は女性より高いものの、
高齢になるにつれて女性の発症率も大きく上昇する点が重要です。 - 若年層(0~34歳)では発症率は極めて低い一方、
中高年以降にリスクが急増する「加齢依存性疾患」であることが分かります。
この結果は、心筋梗塞が「突然起こる病気」ではなく、
長年にわたる動脈硬化の進行の結果として発症する病気であることを示しています。
そのため、症状が出る前の段階からの予防(脂質管理・生活習慣改善)が極めて重要です。
例えば、
心筋梗塞リスクの高まる60代男性であっても年間に心筋梗塞を発症するのは500人に年間1人、10年間で10人程度となります。500人全員に10年間LDL強化治療を行って5人(1%)以上心筋梗塞の発症を予防できれば医療費が減る計算ですが、実臨床でこれを目指すのは現実的ではありません。
日本人の動脈硬化性心疾患(狭心症や心筋梗塞)の10年リスクを予測する久山町スコアを用いると、60代男性で収縮期血圧140mmHg、糖尿病予備軍、LDLコレステロール140mg/dL、HDLコレステロール40mg/dLであれば、喫煙なしで10年リスクは11.9%、喫煙ありでは15.5%になります。このような方のLDLコレステロールを100mg/dLまで10年間下げることができれば10年リスクは喫煙なしで9.1%(-2.8%)、喫煙ありで11.9%(-3.6%)まで改善することができます(十分投資医療に見合う1%以上の予防が可能となり得ます)。
実務的な注意(現実はここが重要)
実際には「心筋梗塞」だけでなく、
脳卒中、心不全入院、再血行再建、要介護、就労損失なども減るので、
“医療費だけ・心筋梗塞だけ”で損益をみると過小評価になります。
久山町スコアの注意点:
久山町スコアは、日本人の疫学データに基づいた信頼性の高い心血管リスク評価法ですが、肥満(特に内臓脂肪型肥満)を直接評価項目に含んでいない点には注意が必要です。
このスコアが作られた当時(1961年〜)の日本では、現在ほど肥満が多くなく、肥満による影響は高血圧や糖尿病、脂質異常症といった項目を介して間接的に評価されていました。しかし近年は、若年〜中年男性層、高齢女性層を中心に肥満者が増加しており、血圧や血糖、LDLコレステロールがまだ基準範囲内〜軽度異常であっても、動脈硬化が静かに進行しているケースが少なくありません。
そのため、久山町スコアが「低リスク」と示していても、肥満や体重増加が続いている場合は将来リスクを過小評価している可能性があります。スコアの結果だけに安心せず、体型や生活習慣、家族歴なども含めた総合的なリスク評価が重要です。
久山町スコアは有用な目安ですが、「体型の変化」までは反映しきれないことを理解して使う必要があります。
これから必要なのは「裁量を残した予防強化」
日本が本当に予防医学へ舵を切るために必要なのは、
欧米のような一律の数値主義ではありません。
必要なのは、
- ガイドラインの目標値を「最低ライン」と正しく理解すること
- リスク(例:喫煙・家族歴・肥満・高血圧・慢性腎臓病・耐糖能異常/2型糖尿病・高LDL>190・プラークなど)のある人では
迷わず前倒しでまず治療を強化(LDL<100)する“わかりやすい”共通認識 - 忙しい現場でも自然に判断できるシンプルな補助ツール
です。
まとめ
日本の脂質管理が保守的なのは、日本人に最適化された合理的選択です。
しかし、その裁量の大きさは、忙しい現場では
“惰性による過小治療(クリニカル・イナーシャ)”を生みやすいという側面も持っています。
真の予防医学とは、医師の判断を尊重しつつ、
早期介入を後押しする仕組みを整えることなのです。
(文責:すぎもと内科・糖尿病内科クリニック杉本一博)