肥満症「治療するコスト」と「治療しないコスト」はどちらが高い?~米国の「Cost of Inaction」研究から考える日本の医療政策 ~
| 肥満症診療では、新しい治療薬の薬価や保険財政への影響がすぐに注目されます。 一方、治療へのアクセスが限られた結果、治療を受けないまま経過したときに将来生じる2型糖尿病、心不全、脳卒中、がん、就労損失、生活の質の低下も、本来は「コスト」の一部です。 2026年に発表された米国の研究は、この見えにくい負担を「Cost of Inaction(行動しないことのコスト)」として可視化しました。 |
■「治療しない」は0円ではない
肥満症は、単に体重の数字が大きいという問題ではありません。2型糖尿病、心血管疾患、睡眠時無呼吸、脂肪肝、関節疾患など、さまざまな健康障害と関連する慢性疾患です。それにもかかわらず、新しい治療薬が登場すると、医療政策の議論ではまず「薬価はいくらか」「保険財政への影響はどの程度か」が注目されがちです。
もちろん、限られた医療財源をどう使うかを検討することは必要です。しかし、比較の片側を「治療費」、もう片側を「0円」と置けば、議論は最初から治療に不利になります。本来比べるべきなのは、治療にかかる費用と、治療しないことで将来積み上がる合併症、医療費、介護費、就労損失、生活の質の低下です。
■米国の肥満のある成人約1億760万人を10年間で推計
Sapraらは、米国の肥満のある成人約1億760万人を対象に、2026年から2035年までの10年間について、一人ひとりの年齢や健康状態の変化をコンピューター上で再現し、将来どのような病気が起こり、医療費などの負担がどの程度になるかを推計しました。比較したのは、現在の限定的な治療アクセスを続ける場合と、生活習慣への集中的支援・従来型薬剤へのアクセスを拡大する場合、さらにGLP-1受容体作動薬およびGIP/GLP-1受容体作動薬へのアクセスを拡大する場合です。[1]
現行の限定的アクセスを続けた場合と比べ、GLP-1受容体作動薬やGIP/GLP-1受容体作動薬などの新しい肥満症治療薬へのアクセスを拡大したシナリオでは、10年間に約530万人の死亡、500万例の2型糖尿病、550万例の心不全、280万例の脳卒中、130万例の心筋梗塞、150万例を超える肥満関連がんを予防または先送りできると推計されました。これは臨床試験そのものの結果ではなく、複数の疫学・臨床データを組み合わせたモデル推計ですが、「治療しない」ことにも将来の疾病負担があることを数量化した点が重要です。[1]
表:治療アクセス拡大で予防・先送りできると推計された10年間の主な負担
| 項目 | 推計値 |
| 予防可能な死亡 | 約530万人 |
| 2型糖尿病 | 約500万例 |
| 心不全 | 約550万例 |
| 脳卒中 | 約280万例 |
| 心筋梗塞 | 約130万例 |
| 肥満関連がん | 約150万例超 |
■医療費だけでは、全体の一部しか見えない
この研究では、肥満症治療によって回避できる医療費は10年間で約1.8兆ドルと推計されました。さらに、労働参加の維持、欠勤や就労中の生産性低下の減少、障害の減少などを合わせた生産性・労働関連の便益は約3.0兆ドル、生活の質の改善は約5.6~8.5兆ドルと見積もられています。合計すると、治療アクセスを拡大しないことで失われる経済的便益は10年間で約10.5~13.3兆ドルに達する、というのがこの研究の結論です。[1]
ただし、ここで見落としてはいけないのは、GLP-1受容体作動薬やGIP/GLP-1受容体作動薬へのアクセスを広げれば、薬剤費、診察・栄養指導、継続フォローアップにかかる費用は当然増えるという点です。対象者が増えるほど、短期の保険財政負担も大きくなります。さらに、本研究で示された約1.8兆ドルの医療費削減は、肥満症治療薬そのものの費用を含まない推計であり、薬剤費を差し引いた「純節約額」を示したものではありません。したがって、この研究が教えてくれるのは、「治療を広げれば必ず安くなる」ということではなく、「治療しないことにも非常に大きな将来コストがある」という事実です。[1]
■では、治療アクセスを広げるためにいくらかかる?
同じ研究グループが2026年に発表した別の分析では、米国の民間保険に加入する肥満のある成人のうち、既存の治療経路では治療にアクセスできていない約4,730万人を対象に、5年間の費用と便益を推計しました。GLP-1受容体作動薬やGIP/GLP-1受容体作動薬などの新しい肥満症治療薬は、月350ドル(仮に1ドル150円とした場合、52,500円)としてモデル化されています。[2] ここでいう350ドルは、「保険加入者が窓口で支払う自己負担額(copay)」という意味ではなく、保険を使わずに自己負担で購入する場合の公表価格を参考にしたものです。米国では、製薬会社の定価がそのまま保険者の実際の支払価格になるとは限らず、保険会社やPBM(薬剤給付管理会社)が製薬会社とリベート(事後的な割引)などを交渉し、実質的な支払価格が下がる仕組みがあります。[3] この研究では、保険者との交渉後の実質価格も、少なくともこの自己負担向け公表価格と同程度まで下がると想定し、月350ドルを用いています。[2]
この関連研究では、生活習慣への集中的支援、肥満症治療薬、代謝・肥満外科手術を含む治療全体への5年間の総投資は447億ドルと推計されました。一方で、5年間に得られる便益は、医療費削減97億ドル、生産性向上258億ドル、生活の質の改善388億ドル、死亡減少による価値296億ドルでした。これらを合わせると、治療費を差し引いた社会全体の正味価値は591億ドル、投資1ドルあたり2.35ドルの社会的価値になると推計されています。[2]
ただし、この447億ドルはGLP-1受容体作動薬やGIP/GLP-1受容体作動薬だけの薬剤費ではなく、複数の治療法を含めた総投資額です。また、この研究は民間保険加入者を対象とした5年間の分析であり、米国全体を対象に10年間を推計した「Cost of Inaction」研究の10.5~13.3兆ドルと直接差し引いて比較することはできません。ここで重要なのは、治療側の費用も明示したうえで、医療費だけでなく、生産性、生活の質、死亡減少まで含めて評価すると政策判断の見え方が変わる、という点です。[2]
著者らは、医療費だけに絞った分析では、治療による総価値の16~19%しか捉えられないと指摘しています。医療保険財政に表れる数字だけでは、就労、介護、家族の負担、日常生活の質といった社会全体の損失が見えにくいからです。[1]
| ◎ここは重要です この1.8兆ドルや10.5~13.3兆ドルは「薬剤費を差し引いた純節約額」ではありません。研究の医療費削減推計は肥満症治療そのものの費用を除外しています。 したがって、この論文だけから「治療の方が必ず安い」と断定することはできません。示されたのは、無治療・治療アクセス制限にも非常に大きな健康・経済コストが存在する、ということです。 |

「治療コスト」と「治療しないコスト」を同じ土俵で考える
■では、日本は「治療しないコスト」を見ていないのか
ここは慎重に考える必要があります。日本にも費用対効果評価制度があり、評価対象技術の費用だけでなく、将来の関連する合併症などの費用も含めて推計することが求められています。また、効果指標には原則としてQALY(質調整生存年)が用いられます。したがって、日本の制度が「無治療のコストをまったく評価していない」と表現するのは正確ではありません。[4]
実際、肥満症治療薬ウゴービについても、日本では食事療法・運動療法を比較対照として費用対効果評価が行われ、十分に長い期間で評価すべきことや、肥満症のQOL評価の扱いなどが議論されました。その結果は薬価調整にも反映されています。[5][6]
■それでも「見えにくい価値」は残る
一方、日本の2024年度版の分析ガイドラインでは、生産性損失は基本分析には含めず、追加的分析として扱うことができるとされています。さらに、生産性損失を含める場合も、原則として治療による入院期間短縮など「医療技術に直接起因するもの」を費用に含め、病態改善や生存期間延長を通じて生じる間接的な生産性改善は基本的には含めない考え方です。[4]
この違いは小さくありません。米国研究で大きな割合を占めたのは、医療費そのものよりも、働き続けられること、障害や早期死亡を減らすこと、生活の質を保つことでした。これらは医療保険財政には直接現れにくいですが、現実には本人・家族・企業・介護制度・社会全体にとっては深刻な問題です。
■さらに日本では、治療への「入口」にも高いハードルがある
2026年9月時点の日本では、ウゴービやゼップバウンドを保険診療で肥満症に用いるには、薬剤の効能・効果だけでなく、最適使用推進ガイドラインに基づく対象者要件と施設要件を満たす必要があります。たとえば、BMI(体格指数)27 kg/m²以上で肥満に関連する健康障害を2つ以上有する、またはBMI 35 kg/m²以上であることに加え、高血圧、脂質異常症または2型糖尿病の少なくとも一つを有し、かつ薬物療法中であること、適切な食事療法・運動療法を原則6か月以上継続しても十分な効果が得られないことなどが求められます。[7][8]
さらに、処方できる医療機関にも要件があります。管理栄養士による栄養指導体制に加え、関連学会の教育研修施設であること、肥満症や関連疾患の診療経験と専門医資格を有する常勤医師が所属していることなどが求められます。投与開始後も定期的な栄養指導や体重・血糖・血圧・脂質の確認が必要で、肥満症に対する投与期間もウゴービは最大68週、ゼップバウンドは最大72週までに限定されています。[7]
こうした要件の背景には、適正使用と安全性を確保し、限られた医療資源を有効に使うという政策上の理由が挙げられています。実際、厚生労働省は最適使用推進ガイドラインについて、革新的医薬品を「真に必要な人」に提供することを目的としています。[9] 一方で、これほど多段階の要件が重なると、医学的には薬物療法を検討し得る人であっても、居住地域や受診施設によって治療へ到達しにくくなる可能性があります。
問題は、アクセスを絞ることで短期の薬剤費を抑えたとき、その一方で「治療を受けられなかった」ことによる長期的な疾病負担がどれだけ増えるのかを、同じ政策判断の中で十分に検証しているかです。制度が「治療しないこと」を意図的に勧めていると断定することはできません。しかし、結果として治療を受けない方向に制度が作用していないかは、検証すべき重要な論点です。
「Cost of Inaction(行動しないことのコスト)」という考え方に立てば、薬剤へのアクセス制限を設ける際には、抑制できる薬剤費だけでなく、その制限によって将来増える可能性のある2型糖尿病、心不全、脳卒中、腎障害、睡眠時無呼吸、関節疾患、介護、就労損失、生活の質(QOL)の低下まで、同じ時間軸で評価する必要があります。アクセス制限そのものにも「将来のコスト」があり得るからです。
この「生活習慣改善に十分取り組んでから薬物療法へ進む」という日本の仕組みと、肥満症を慢性疾患として捉え、必要に応じて早期から薬物療法を組み合わせる米国ガイドラインとの違いについては、当院の関連コラムでも詳しく取り上げています。[10]
関連コラム:肥満症治療薬は“努力に失敗した後”の薬?米国ガイドラインが問いかける、日本の厳しい保険適用要件
■問うべきは「治療費はいくらか」だけではない
高額な治療薬であれば、薬価や保険財政への影響を検証するのは当然です。しかし、「高いから使わない」で議論を止めると、その結果として増える2型糖尿病、心不全、脳卒中、透析、脂肪肝、睡眠時無呼吸、関節疾患、がん、死亡、介護、就労喪失などの負担が、医療・介護・雇用・家計といった別の場所へ移るだけかもしれません。短期の医療費を抑えても、長期では社会全体の負担が増える可能性があります。
肥満症治療をめぐる本当の比較は、「治療費 vs 0円」ではありません。「増加する薬剤費や診療費も含めた総費用と健康上の利益」と、「治療しなかった場合に将来累積する疾病負担、医療費、介護費、生産性損失、生活の質の低下」を、同じ時間軸で比べることです。
| 米国の「Cost of Inaction」研究が投げかけた問いは、単純な「薬は高いか、安いか」ではありません。「治療しない」という選択にも費用があり、その費用を誰が、いつ、どの制度で負担するのかまで見なければ、本当の意味での費用対効果は見えてこない――。 日本でも、肥満症治療の価値を考える際には、この視点をもっと前面に出す必要があるのではないでしょうか。 |
■この研究を読むうえでの注意点
本研究は米国の医療制度・人口・賃金・保険制度を前提としたモデル研究であり、数値をそのまま日本へ当てはめることはできません。また、推計結果は治療継続率、体重減少量、合併症リスク、QALYの金銭換算など多くの仮定に依存します。さらに、治療薬そのものの費用を差し引いた「純便益」を示した研究ではありません。日本で政策判断に用いるには、日本の診療実態、薬価、合併症医療費、介護費、生産性損失を用いた独自の長期推計が必要です。[1]
■参考文献
2. Dall TM, Chen F, Sapra T, et al. Benefits and Costs of Treating Obesity Among Adults in Commercial Insurance Plans. Diabetes, Obesity, and CardioMetabolic CARE. 2026;1(3):320-329. doi:10.2337/doci25-0006. 論文リンク
3. KFF. What to Know About Pharmacy Benefit Managers (PBMs) and Federal Efforts at Regulation. Updated February 9, 2026. 資料リンク
4. 国立保健医療科学院 保健医療経済評価研究センター(C2H). 中央社会保険医療協議会における費用対効果評価の分析ガイドライン 2024年度版.
5. 厚生労働省. 医薬品の費用対効果評価案について(ウゴービ皮下注). 中央社会保険医療協議会, 2025年5月14日.
6. 厚生労働省. ウゴービの費用対効果評価結果に基づく価格調整について. 中央社会保険医療協議会, 2025年8月6日.
7. PMDA. 最適使用推進ガイドラインの概略(肥満症治療薬の患者・施設要件).PMDA資料
8. 厚生労働省. 肥満症の効能又は効果を有するチルゼパチド製剤に係る最適使用推進ガイドラインの策定に伴う留意事項について(保医発0318第3号, 2025年3月18日).厚生労働省資料
9. 厚生労働省. チルゼパチド製剤の最適使用推進ガイドライン(肥満症)の作成について(医薬薬審発0318第1号, 2025年3月18日).厚生労働省資料
10. すぎもと内科・糖尿病内科クリニック. 肥満症治療薬は“努力に失敗した後”の薬? ― 米国ガイドラインが問いかける、日本の厳しい保険適用要件. 2026年6月29日. https://www.sugimoto-cl.info/2026/06/29/1631/
(文責:医療法人寿里会すぎもと内科・糖尿病内科クリニック杉本一博)