日米の健康寿命ギャップから考える米国の「K字型医療」と日本の「負担転嫁医療」
| <このコラムの問い> 米国は世界最大級の医療費を投入しながら、日本より平均寿命も健康寿命も短い。 一方、日本は国民皆保険とユニバーサルアクセスによって世界有数の長寿を実現してきた。 しかし、その「誰でも受診しやすい保険診療」の窓口以外の診療費は当然消えたわけではない。現役世代、将来世代、そして医療従事者・医療機関へ、見えにくい形で移されてきたのではないか。さらに医師報酬と若手医師の「直美」志向も含め、英国・北欧・フランス・ドイツの制度から次の日本医療を考える。 なお、本稿は必要な受診を控えることや、病気になった人に自己責任を求めるものではない。 症状に不安があるときや、重症か軽症か自分では判断できないときは、これまで通り医療機関に相談していただきたい。本稿で問うのは個々の受診者ではなく、限られた医療資源をどう配分するかという制度設計である。 |

図1 日本 vs. 米国:医療経済規模と健康寿命・平均寿命
医療費:OECD Health at a Glance 2025 [1][2] / 健康寿命・平均寿命:WHO 2021 [3][4] ※WHO 2021年値はCOVID-19流行期を含むため、米国の平均寿命が大きく低下した時期の国際比較である。
1.医療費が大きいほど、国民全体が健康になるわけではない
OECDの比較では、日本の1人当たり医療費は5,790ドル(各国の物価水準を調整した国際比較用のドル換算値)、GDP比10.6%であるのに対し、米国は14,885ドル、GDP比17.2%と突出している。にもかかわらず、日本の平均寿命は米国を大きく上回る。日本は基本的医療サービスについて人口全体を公的制度でカバーしているのに対し、米国のコアサービスのカバー率は93%である。[1][2]
WHOの2021年データでは、日本の健康寿命(HALE)は73.4歳、平均寿命84.5歳で、その差は11.1年だった。米国は健康寿命63.9歳、平均寿命76.4歳で、差は12.5年である。HALEは「要介護になる年齢」を示すものではなく、疾病や障害によって完全な健康状態ではない期間を重み付けして推計した指標である。[3][4]
| <ここから分かること> 医療産業の規模や医療費の多さと、国民全体の健康成果は同義ではない。アクセス、予防、社会環境、医療資源の使い方まで含めて初めて健康寿命につながる。 |
2.米国の短命は「医療制度」だけでは説明できない
米国の平均寿命が短い背景には、肥満、糖尿病、腎疾患、心血管疾患などの慢性疾患負担が大きい。2022年の米国を他の高所得国と比較した研究では、超過死亡の40%を循環器疾患、13%を糖尿病・腎疾患・代謝疾患が占めた。薬物中毒も10%を占め、死亡率は比較国の7倍を超えていた。[5]
さらに薬物過量、自殺、銃器関連死、殺人、交通事故などの外因死は、比較的若い年齢で発生するため平均寿命を強く押し下げる。米国では2024年に薬物過量死が約7.9万人、銃器関連死が約4.4万人記録された。銃器関連死には殺人だけでなく自殺も含まれる。[6]
一方で、高所得層には世界最高水準の専門医療、医薬品、医療機器、デジタルヘルスへアクセスできる環境がある。所得や居住地域、保険の違いによって健康成果が大きく分かれる構造を、本稿では便宜的に「K字型医療」と呼ぶ。これは確立した学術用語ではなく、医療の経済成長と健康成果の格差が同時進行する状況を表すための表現である。
3.日本が達成した「平和な長寿社会」
日本の長寿は医療だけの成果ではない。戦後長期にわたり国内で戦争による継続的な大量死を経験せず、銃器や薬物過量による若年死亡が米国ほど大きな人口保健上の問題になってこなかった。衛生、教育、食環境、治安、社会保障、そして国民皆保険によるユニバーサルアクセスが重なって現在の長寿社会が形成されたと考えるべきである。
OECDによれば、日本の予防可能死亡と治療可能死亡はいずれもOECD平均を下回り、急性心筋梗塞や脳卒中などの急性期医療でも良好な指標を示す。[1] 一方、米国では予防可能死亡、治療可能死亡、回避可能な入院がOECD平均より多い。[2]
この点で、日本の国民皆保険は大きな成功である。しかし、国民皆保険を守ることと、現在の医療利用の仕組みをそのまま守ることは同じではない。
4.「保険で価格が決められた医療」の費用は、誰が負担しているのか
日本の保険診療では、検査・処置・薬剤などの価格が国の診療報酬制度によって定められている。受診者が窓口で支払う金額は医療費の一部であり、残りは保険料や税などによって社会全体で負担している。保険料と税を通じて、現在ほとんど医療を利用していない若年・現役世代も制度を支えている。さらに社会保障を含む政府支出の一部が公債で補われれば、その返済負担は将来世代へ及ぶ。財務省も高齢化に伴う社会保障給付と財政の持続可能性を重要課題としている。[7]
◎現役世代の負担は、少子化とも無関係ではない
ここには、医療財政だけでなく人口政策上の問題もある。社会保険料は現役世代の手取りを直接減らす。財務省も、現役世代の可処分所得を増やすとともに社会保障制度の持続性を確保する観点から、医療・介護の保険料率の上昇を最大限抑制する必要があると指摘している。[8]

少子化は単一の原因で説明できないが、経済条件が結婚・出産行動に関係することは政府資料でも繰り返し指摘されている。内閣府は、将来の所得上昇への期待を高めることや、住宅・教育費などの子育て負担を軽減することが、結婚・出産を後押しする上で重要としている。[9] また、第16回出生動向基本調査でも、理想の数の子どもを持たない理由として「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が依然として最多だった。[10]
したがって、社会保険料負担そのものを少子化の直接原因と断定することはできない。しかし、高齢化に伴う社会保障給付の増加を主として現役世代の保険料・税で支える構造が若年世代の可処分所得を圧迫し、住宅取得、結婚、出産、育児に回せる経済的余力を縮小することで、少子化をさらに強める一因となる可能性は否定できない。医療・介護の効率化は、単なる財政再建ではなく、次世代が家庭を築く余力を取り戻すという意味でも重要である。
もう一つの負担先が医療提供側である。2024年度の病院経営調査では、医業利益が赤字だった病院は74.6%、経常利益が赤字だった病院も65.0%だった。給与費、材料費、委託費、水道光熱費などの上昇が収益の伸びを上回っている。[11]
帝国データバンクによれば、病院・診療所・歯科医院を合わせた医療機関の倒産は2025年に66件と過去最多となり、2026年上半期も39件と前年同期を上回った。2026年上半期の診療所倒産は19件で、上半期として過去最多だった。倒産には経営者の高齢化・後継者難など複数の要因があるものの、物価高や人件費上昇に対して価格転嫁しにくいことも収益悪化要因として挙げられている。[12]
| <本稿でいう「負担転嫁医療」> 公定価格のもとで幅広いユニバーサルアクセスを維持する費用を、受診時には見えにくい形で、現役世代の保険料・税、将来世代の政府債務、医療従事者の相対的な待遇、医療機関の収益へ分散してきた構造を指す。これも本稿で用いる便宜的な表現である。 これは医療を受ける人を批判する言葉ではなく、制度設計上の負担配分を表すための表現である。 |
5.医師報酬と「直美」――人材は制度の報酬差に反応する
医療の持続可能性を考えるとき、医療従事者の報酬を単なる「医療費のコスト」とみなすことには問題がある。専門職の報酬や勤務条件は、診療科選択や就業先の選択を左右し、最終的には保険診療を担う人材の確保にも影響し得る。そこで、主要国の医師報酬を、各国の公表値から名目為替で米ドルに換算して比較する。
表1 各国の医師年収の比較(名目米ドル、統計の対象・年次が異なるため概算)
| 国 | 比較対象 | 年収の目安(米ドル) | 出典・注意点 |
| 日本 | 雇用される医師・男女計 | 約 $95,000 | 2025年統計を名目為替で米ドル換算。[13] |
| 韓国 | 研修医を除く医師平均 | 約 $214,000 | 2022年の保健福祉部資料を名目為替で米ドル換算。[14][15] |
| 米国 | Physicians & surgeons | 中央値 $239,200以上 | BLS。自営業者は賃金統計の対象外。[16] |
| 英国 | NHS consultant 基本給 | 約 $153,000~203,000 | England 2026/27。NHS consultant基本給を名目為替で米ドル換算。[17][18] |
| ドイツ | 自治体病院のFacharzt基本給 | 約 $105,000~134,000 | 2026年。自治体病院Facharzt基本給を年額化し、名目為替で米ドル換算。当直等は別。[19][20] |
注:購買力調整は行わず、各国の公表統計・給与表を2026年8月上旬の名目為替で米ドル換算した(日本は1 USD=160 JPYとして概算)。日本は2025年賃金構造基本統計調査の医師(企業規模計10人以上)を用いた。[13] 韓国は保健福祉部が裁判所に提出した2022年資料(研修医を除く医師平均)、米国はBLS、英国は2026/27年のEngland NHS consultant(専門研修を終えた上級専門医)の基本給、ドイツは2026年の自治体病院勤務Facharzt(専門医)基本給である。[14][16][17][19] 為替は2026年8月上旬の市場レートを用いた。[15][18][20] 当直・時間外手当、民間診療、自営収入などは統計により含有が異なり、厳密な順位表ではない。
名目ドルで見ると、日本の平均的な勤務医は約9.5万ドルで、韓国の医師平均約21.4万ドル、米国の医師・外科医中央値23.9万ドル以上とは大きな差がある。一方、英国NHS consultantの基本給は約15.3万~20.3万ドル、ドイツ自治体病院の専門医基本給は約10.5万~13.4万ドルである。勤務形態や統計定義が違うため単純比較はできないが、保険診療で価格を自由に決められない日本において、自由診療との収益機会の差が大きくなれば、人材移動を促す要因になり得る。
◎若手医師の「直美」――個人のモラルより制度のインセンティブを見る
美容医療へ進む若手医師をめぐり、「直美」という言葉が使われるようになった。厚生労働省の資料では、診療所で主として美容外科に従事する医師は2010年406人から2022年1,230人へ約3倍に増加した。20代は5人から155人、30代は154人から501人へ増え、20~30代を合わせると159人から656人へ約4.1倍となった。2022年には美容外科医の約53%を20~30代が占める。[21]
ただし、この統計は年齢階級別の美容外科従事医師数であり、「初期研修終了直後に美容医療へ進んだ医師」の全国的な人数を直接数えたものではない。社会保障審議会では、2年間の臨床研修修了後にそのまま自由診療の美容医療へ進む、いわゆる「直美」が増えているとの問題提起がなされているが、これは審議会での委員発言であり、因果関係を証明する全国コホート統計とは区別する必要がある。[22]
若手医師が美容医療を選ぶ理由も、収入だけとは限らない。当直・夜勤、勤務時間の予測可能性、専門研修に要する年数、医療訴訟リスク、勤務地、キャリア観などが複合的に関係すると考えられる。それでも、保険診療では価格を医療機関が決められず、自由診療では需要に応じて価格を設定できるという制度上の報酬差が、人材配置に与える影響は無視できない。
2026年度診療報酬改定では、医療機関等の対象職員について2026年度・2027年度それぞれ3.2%のベースアップ実現を支援し、ベースアップ評価料の対象を事務職員や40歳未満の医師・歯科医師等にも拡大した。[23] これは、保険診療を支える人材の確保と処遇改善が制度上の課題になっていることを示している。
| <人材流出を「自己責任」にしない> 若手医師の自由診療志向を個人の価値観だけで批判しても、流れは変わらない。 必要なのは、救急・内科・小児科など社会に不可欠な保険診療を担う専門性、負担、夜間勤務、継続研修に見合う報酬を制度として用意することである。 |
6.英国・北欧は「必要な医療へのアクセス」を公的に保障し、病院・専門医の利用経路を管理する
英国や北欧も公的財源を中心に必要な医療を保障している。しかも英国、スウェーデン、ドイツの医療費はGDP比で日本と同程度か、日本を上回る。[24][25][26] 日本との大きな違いは制度の入口にある。英国・北欧などは、必要な医療を受けられる権利を公的制度で保障する一方、専門医や病院を利用する経路をGPによる紹介、自己負担、費用対効果評価などで管理している。これに対し日本は、国民皆保険によるアクセス保障に加え、受診者が医療機関を自由に選べる「フリーアクセス」を広く認めており、病院への直接受診や受診回数への制度的制約が比較的弱い。
表2 必要な医療へのアクセスを保障し、利用経路・利用量を管理する欧州の仕組み
| 国・地域 | 必要医療を保障しながら利用を管理する仕組み | 日本への示唆 |
| 英国 | GP(家庭医・総合診療医)を入口とする紹介制/NICEによる費用対効果評価 | 専門医・病院受診の必要性を入口で整理し、公費で購入する医療技術を評価する |
| スウェーデン | 外来自己負担+12か月の自己負担上限/上限到達後は対象外来の自己負担免除/無断・直前キャンセル料 | 日常的な受診には一定の自己負担を求め、頻回の医療が必要な人は年間上限で守る |
| デンマーク | 病院診療は原則紹介制 | 病院医療は公費で保障しつつ、病院への利用経路を管理する |
| フランス | かかりつけ医中心の協調診療経路/経路外は償還率低下 | 受診を禁止せず、非効率な経路には本人負担を増やす |
| ドイツ | 家庭医中心診療へのボーナス/予防歯科受診で補助率上昇 | 「罰する」より、適切な受診・予防行動を報いる |
◎英国:GPが専門医療への入口を担い、NICEが「公費で何を購入するか」を評価する
英国NHSでは、多くの専門医療はGP(General Practitioner:家庭医・総合診療医)などの紹介を介して利用する。GPが最初の相談窓口となり、医学的必要性を判断して専門診療へつなぐ仕組みである。[27] さらにNICE(National Institute for Health and Care Excellence:英国国立医療技術評価機構)は、医薬品や医療技術を「効くか」だけでなく、得られる健康利益に対してどれだけ費用を要するかで評価する。2026年から標準的な費用対効果の目安は1 QALY当たり概ね25,000~35,000ポンドとなった。QALY(Quality-Adjusted Life Year:質調整生存年)とは、完全な健康で1年間生きる価値を1として、寿命の長さと生活の質を一つの尺度にまとめた指標である。[28]
英国型の欠点は待機時間である。NHS Englandが公表する非緊急の専門医治療について、2026年5月時点で「紹介から治療開始まで」の待機リスト上の中央値は12.4週(約3か月)で、92パーセンタイルは38.6週だった。65.6%は18週以内だったが、NHSの目標である92%には達していない。NHSは単純な算術平均より中央値を主要指標として公表している。[29] したがって、日本が英国型をそのまま模倣すべきではない。アクセス管理を強める場合には、必要な医療の遅れを生まない仕組みを同時に整備する必要がある。
◎スウェーデン:日常の外来には自己負担を設け、頻回に医療が必要な人は上限で守る
スウェーデンでは外来受診に一定の自己負担を設定しつつ、12か月間に支払う対象外来の自己負担には1,450クローナ(約2万4,000円)の上限がある。上限に達すると「frikort(フリーカード)」の資格が付与され、同じ12か月期間の残りは、高額負担保護の対象となる外来受診の窓口負担が0になる。つまりfrikortは、一定額以上を支払った人について、その後の対象外来自己負担を免除する仕組みである。[30]
さらにストックホルムでは、予約を無断で欠席した場合や期限を過ぎてキャンセルした場合に400クローナの料金が発生する。これは2026年8月の為替で約6,700円に相当する。[31][32] frikortを持つ人などもこの料金の対象となる。病気であることを罰するのではなく、限られた予約枠を無駄にする行動にコストを設定している。
◎デンマーク:病院医療は公費で保障するが、病院への入口は紹介制で管理する
デンマークでは、病院で検査・治療を受けるには原則として家庭医、専門医、時間外医療サービスなどからの紹介を必要とする。病院医療そのものを公費で保障しながら、病院を利用する経路は制度的に管理されている。[33]
◎フランス:「自由に受診する権利」は残すが、経路外は自己負担が増える
フランスでは、かかりつけ医を中心とする協調診療経路を守れば、原則として基準額の70%が公的医療保険から償還される。一方、正当な理由なく経路を外れて直接受診すると償還額が大幅に減り、30ユーロの一般医受診では19ユーロから8.40ユーロへ低下する。[34] 受診そのものを禁止するのではなく、非効率な経路を選択した場合の追加コストを本人にも負担してもらう仕組みである。
◎ドイツ:「健診を受けない罰金」ではなく、予防・適正利用にボーナス
ドイツでは、家庭医中心診療に参加すると保険者によってボーナスや自己負担軽減を受けられる。制度の目的には、診療を一元的に調整し、不必要な重複検査を避けることも含まれる。[35]
歯科では、定期健診を5年間継続すると標準的な補綴治療への公的補助率が70%に、10年間継続すると75%に上がる。[36] これは「予防しなかった人を罰する」のではなく、「予防した人を報いる」設計である。
7.日本の低価値医療をどう減らすか
低価値医療(low-value care)とは、費用が高い医療という意味ではない。受診者にもたらす期待利益が小さい、あるいは害・負担が利益を上回り得る検査・投薬・処置を指す。日本の急性期病院を対象とした研究でも、感冒への抗菌薬、不要な検査や一部の処置など、複数の低価値医療が確認されている。[37]
したがって、削るべきなのは「高齢者医療」や「高額医療」そのものではない。高額でも生命や健康を大きく改善する医療は高価値であり、安価でも利益の乏しい行為を多数繰り返せば低価値となる。必要なのは、低価値医療から予防・疾病管理・医療人材へ資源を移すことである。
8.医療費抑制が「高価値医療へのアクセス」を妨げる逆説
日本の医療費抑制には、もう一つの逆説がある。医療費全体を低く抑えることが優先されるあまり、高価ではあっても将来の疾病や合併症を減らす可能性の高い高価値医療へのアクセスまで過度に狭めれば、短期的な薬剤費の節減が長期的な健康損失につながりかねない。その象徴が、GLP-1受容体作動薬セマグルチドと、GIP/GLP-1受容体作動薬チルゼパチドなどの新しい肥満症治療薬である。
これらは単なる「やせ薬」ではない。体重や血糖だけでなく、血圧・脂質などの心血管リスク因子にも影響し、薬剤ごとに幅広い臨床アウトカム改善が示されている。セマグルチドでは、肥満・過体重で心血管疾患のある糖尿病のない人を対象としたSELECT試験で主要心血管イベントが20%減少した[38]。2型糖尿病とCKDのある人を対象としたFLOW試験では腎・心血管アウトカムが改善した[39]。さらに、MASH(代謝機能障害関連脂肪肝炎)の肝組織所見を改善したESSENCE試験[40]、肥満を伴う変形性膝関節症の疼痛と身体機能を改善したSTEP 9試験[41]も報告されている。
チルゼパチドでも、肥満を伴う中等症~重症の閉塞性睡眠時無呼吸症候群で、無呼吸低呼吸指数(AHI)を大きく改善することがSURMOUNT-OSA試験で示された[42]。ただし、これらの結果は「1つの薬がすべての疾患に正式適応を持つ」という意味ではない。正式な適応、用量、対象となる人は薬剤ごとに異なる。重要なのは、肥満症治療が単なる体重減少を超えて、心血管・腎・肝・呼吸器・運動器の健康にまで影響し得る高価値医療へ進化していることである。
ところが日本では、肥満症に対するウゴービ(セマグルチド)やゼップバウンド(チルゼパチド)の保険診療に、BMIや肥満関連健康障害に加え、処方する医師・医療機関などに関する最適使用推進ガイドラインが設けられている[43][44]。厚生労働省が示す公式の目的は、革新的医薬品を真に必要な人へ適正に届け、有効性・安全性に関する情報が十分蓄積するまで適切に使用することであり、「高薬価だから制限している」と断定することはできない。一方で、結果として、医学的に治療利益を期待できる肥満症のある人でも、一般の診療所から保険治療へ容易につながりにくい構造が生じている。2026年には、チルゼパチドの閉塞性睡眠時無呼吸症候群への使用についても最適使用推進ガイドラインが設けられた[45]。
世界では、肥満、2型糖尿病、CKD、心血管疾患を別々の臓器の病気として切り離すのではなく、相互に連鎖するCKM(Cardiovascular-Kidney-Metabolic:心血管・腎・代謝)症候群として包括的に予防・治療する方向へ進んでいる。2026年の米国AHA/ACC/ADA/ASN合同ガイドラインも、肥満や2型糖尿病などの代謝リスク、CKD、心血管疾患を一つの連続した病態として捉える枠組みを示した[46]。日本でも、薬剤費の単年度負担だけでなく、将来の心血管イベント、腎不全、睡眠時無呼吸、運動器障害などを減らす長期的な価値を評価する視点が必要である。
米国では利用が急速に拡大している。KFF(旧Kaiser Family Foundation。現在はKFFを正式名称として用いる米国の独立系非営利医療政策研究組織)の2025年調査では、過去5年間に医師から過体重または肥満を指摘された成人の34%がGLP-1関連薬の使用経験があり、23%が現在使用中と回答した[47]。ただし、この数字には糖尿病や心血管疾患など別の目的で使用している人も含まれ、保険請求データではなく自己申告調査である。また同調査では使用者の56%が費用負担を困難と感じており、米国では「利用は広いが、所得や保険による格差が大きい」という、やはりK字型医療の別の問題もある。日本が米国型をそのまま追うべきではないが、反対に、高価であることを理由に高価値医療へのアクセスまで過度に狭めることも避けるべきである。
低価値医療には公費を漫然と使わない。しかし、高価であっても健康寿命を延ばし、将来の重症化を防ぐ高価値医療には、費用対効果を検証しながら適切に資源を投入する。それこそが、医療費を単に抑えるのではなく、限られた医療費からより大きな健康を生み出す医療制度である。
9.日本の「負担転嫁医療」を変える7つの具体策
① かかりつけ医・プライマリケアを医療の入口として明確化する
適切な経路で受診した場合は低い自己負担を維持する。一方、紹介状なしで明らかな軽症を総合病院で受診する場合、明らかに緊急性のない時間外外来や救急車利用などには、追加負担や利用ルールを検討する。ただし、受診控えによる重症化を招いては本末転倒である。受診者自身に重症度の自己判断を求めるのではなく、受診前に相談できる窓口設置など症状の緊急性を確認できる仕組みを充実させる。最初から幅広い症状を対象にせず、まずは「感冒で紹介状なく総合病院を受診する」といった医学的緊急性が明らかに低いケースに絞り、低所得者等への免除や、緊急性が否定できない場合の例外を整備したうえで、検証しながら段階的に適用範囲を広げるべきである。
② 日常受診には一定の自己負担を求め、年間上限で重症者を守る
一律に自己負担率を上げるのではなく、日常的な受診には一定の自己負担を求める一方、慢性疾患などで頻回の医療を必要とする人には年間自己負担上限を設ける。スウェーデンのように、通常の受診には一定の自己負担を設けながら、医療を多く必要とする人の負担が際限なく増えないように守る考え方が参考になる。
③ 「罰金」より適切な健康行動にインセンティブを付ける
健診、予防接種、疾病管理プログラム、禁煙支援、適切なかかりつけ医利用、予約遵守などには保険料・自己負担の軽減やポイント等を検討する。服薬できない背景は多様であるため、服薬不遵守そのものへの一律課金は慎重であるべきだ。
④ 低価値医療から高価値医療へ資源を移す
NICEのように臨床効果と費用対効果を評価し、利益の乏しい検査・投薬・処置を漫然と公的保険で購入しない。その財源を肥満、高血圧、脂質異常、高血糖、喫煙などへの早期介入や、将来の合併症を減らす高価値医療へ振り向ける。高価であること自体を低価値とみなさず、長期的な健康利益と費用対効果で評価する必要がある。
⑤ 診療報酬・薬価を「医療の価値」に応じて変える
日本ではすでに、一定の医薬品・医療機器・再生医療等製品を対象に費用対効果評価制度が導入され、その評価結果を薬価や保険償還価格の価格調整に用いる仕組みがある。2026年度には制度の見直しも行われた。[48][49] ただし、現行制度は主として一部の医薬品・医療機器等の価格調整を対象としており、診療行為全体の点数を「医療の価値」に応じて再設計する仕組みにはなっていない。
そこで日本では、受診者の自己負担率を診療行為ごとに細かく変えるよりも、既存の診療報酬点数、薬価、特定保険医療材料価格そのものに「医療の価値」を反映させる方が、現行制度を活用でき、実装しやすいのではないだろうか。重症化、入院、心血管・腎イベントなどを減らし、長期的な費用対効果の高い医療には必要な評価を確保し、適切な対象へのアクセスを維持する。一方、期待される利益が小さく、より有効な代替手段がある医療については、点数の引下げ、算定回数の制限、包括払いへの移行、保険給付範囲の見直しなどによって、公的保険からの支払いを抑える。これなら窓口で複数の自己負担率を計算する複雑さを避けながら、医療提供側のインセンティブを「量」から「価値」へ変えることができる。
ただし、同じ薬剤、検査、処置でも、疾患、重症度、合併症、将来リスク、治療目的、代替手段の有無、実施頻度によって価値は変わる。したがって、診療行為を一律に「高価値」「低価値」と固定するのではなく、対象となる人の病態や使用状況を含めて評価する必要がある。低価値なのは診療科や受診者ではなく、一定の状況における特定の医療行為である。
表3 診療報酬・薬価に「医療の価値」を反映する考え方(制度提案)
| 医療の価値 | 診療報酬・薬価への反映例 | 考え方 |
| 高価値医療 | 必要な点数・加算を確保/適切な薬価・材料価格/アクセスを不必要に狭めない | 重症化、入院、心血管・腎イベントなどを減らし、長期的な健康利益と費用対効果が高い医療 |
| 標準的医療 | 標準的な診療報酬・保険給付 | 科学的根拠が確立し、通常の保険給付が妥当な医療 |
| 対象によって価値が変わる医療 | 病態・重症度・適応・実施間隔などに応じて算定条件や評価を設定 | 同じ検査・薬剤・処置でも、対象や使用状況によって価値が変化する医療 |
| 低価値医療 | 点数引下げ/算定回数制限/包括化/保険給付範囲の見直し | 科学的根拠から期待利益が小さい、害・負担が利益を上回る、またはより有効な代替手段がある医療 |
| 選択性の高い医療 | 公的保険給付の優先度を下げる/必要に応じ保険外併用等を検討 | 医学的必要性より、本人の希望・利便性などの比重が大きい医療 |
※上記は制度設計の原則例であり、個々の点数や薬価を直観的に決めるものではない。臨床的有効性、重症化予防効果、費用対効果、代替手段、予算への影響などを総合的に評価する必要がある。また、高価値であることは必ずしも「高い価格を付ける」ことを意味せず、限られた財源の中で、適切な対象へのアクセスと医療提供体制を維持できる評価を行うという考え方である。
◎価値基準は誰が決め、どう更新するか
医療の価値を診療報酬・薬価へ反映するなら、その価値を誰が、どのように決めるかが重要になる。関連学会は、診療ガイドラインや最新の臨床試験を踏まえた専門的な評価案の作成で中心的な役割を担うべきである。ただし、学会自身や評価委員と企業・関連団体との利益相反を明確に開示し、診療科の経済的利害だけで結論が左右されない仕組みが必要である。最終的な保険上の評価は、医療経済の専門家、他領域の医療者、受診者・市民代表、保険者などを含む、独立性の高い第三者機関が検証・決定するのが望ましい。
また、医療の価値は固定的なものではない。新しい臨床試験、長期予後、安全性、費用対効果、代替治療の登場によって評価は変わり得る。そのため、例えば3~5年ごとの定期的な再評価を基本とし、重要な新規エビデンスが示された場合には随時改訂できる「継続的更新型」とすることが望ましい。さらに、学習型医療システムで得られる実臨床データを次回の価値評価へ戻せば、「エビデンス → 価値評価 → 診療報酬・薬価 → 実臨床データ → 再評価」という循環をつくることができる。
⑥ 診療報酬を「何回診たか」から「健康をどれだけ守ったか」へ
こうした価値評価を実臨床で検証し、継続的に更新するためには、入院回避、CKD進行抑制、心血管イベント減少、重症低血糖減少、体重改善、フレイル予防など、健康寿命に結びつくアウトカムを評価する報酬を拡大する必要がある。単に検査、投薬、受診回数といった「行為」に点数を付けるのではなく、日常診療から蓄積したデータによって長期的な健康成果を可視化し、その改善を診療報酬へ還元する仕組みが必要である。
前コラムで指摘したように、外来診療データを継続的に収集・解析し、その結果を診療の改善へ戻す「学習型医療システム(Learning Health System)」は、まさにこのアウトカム連動型報酬の基盤となり得た。私は、外来データ提出加算から充実管理加算への移行によって、全国規模で標準化された外来データを蓄積し、診療の質向上へ循環させる方向性が大幅に後退したと考えている。本来は、集めたデータを行政提出で終わらせるのではなく、入院回避、合併症予防、重症化抑制、健康寿命の延伸といった質指標に結び付け、高価値医療を実現した医療機関へ診療報酬として還元する仕組みへ発展させるべきだった。
⑦ 皆保険と自由診療を二者択一にしない
生命・健康に必要でエビデンスが確立した医療は皆保険で守る。一方、付加的なサービスには安全性・有効性・価格透明性を条件として自由診療や保険外併用の選択肢を広げ、公的保険ですべての希望を抱え込まない。
10.ユニバーサルアクセスと「フリーアクセス」は同じではない
日本が米国から学ぶべきなのは、所得によって必要な医療へのアクセスを失わせることではない。医療イノベーションを正当に評価し、専門職や医療機関が持続できる対価を支払う発想である。反対に、米国が日本から学べるのは、所得にかかわらず必要な医療へアクセスできる国民皆保険と、人口全体の健康を底上げする仕組みである。
英国・北欧・フランス・ドイツから日本が学べるのは、必要な医療へのアクセスを保障しながら、病院・専門医の利用経路や医療資源の使い方を管理するという考え方である。日本も「誰でも必要な医療を受けられる」という皆保険の核心は維持しつつ、受診経路を整え、低価値医療を減らし、予防行動にはインセンティブを与える。さらに、費用対効果と重症化予防効果の高い医療には診療報酬・薬価を適切に評価し、医学的利益の小さい医療には点数の引下げ、算定回数制限、包括化などを用いることで、「医療の価値」を公的な支払いに反映することも検討すべきである。受診者側については、一律の負担増ではなく、日常的な受診に一定の自己負担を設けつつ、本当に多くの医療を必要とする人は年間上限や免除で守る。
| <守るべきもの> 日本が守るべきなのは「どこでも、いつでも、なににでも安く受診できる制度」そのものではない。 守るべきなのは、「誰もが、必要なときに、必要な質の高い高価値医療を受けられること」である。 |
制度改革で最も避けなければならないのは、費用を恐れて必要な受診まで控え、病気の発見や治療が遅れることである。医療利用の適正化は受診抑制ではなく、必要な質の高い高価値医療を、必要な人へ確実に届けるために行われるべきである。
少子高齢化が深刻化するなか、日本はこれまで、必要な医療を誰もが受けやすいよう窓口負担を抑え、その費用を社会全体で支える仕組みを維持してきた。これは国民の健康と長寿を支えてきた大きな成果である。
しかし、その費用の多くを現役世代の社会保険料や税で支え、公定価格のもとで医療機関や医療従事者が経営・処遇面で負担の一部を吸収し、さらに財政赤字を通じて将来世代にも負担を先送りする――こうした「負担転嫁医療」モデルは、人口が増え経済が成長する時代には成り立っても、少子化と高齢化が同時進行する現在、そのまま維持することは難しくなっている。
必要なのは、受診しにくい社会へ戻すことではない。低価値医療を減らし、高価値医療には積極的に資源を配分し、医療の価値を診療報酬・薬価に反映しながら、「誰もが、必要なときに、必要な質の高い高価値医療を受けられる」国民皆保険へ進化させることである。
人口減少がさらに進み、支える現役世代が一段と少なくなってからでは、選択肢そのものが失われかねない。今は、日本の国民皆保険を次の世代へ残すために制度を修正できる、最後に近いタイミングなのかもしれない。
国民皆保険を守ることは、現在の制度を守り続けることではない。国民皆保険を守るためにこそ、今、その仕組みを変えなければならない。
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(文責:医療法人寿里会すぎもと内科・糖尿病内科クリニック杉本一博)